ほぼ週に一度は白馬に来ているけれども、私だって東京に帰ればマックにも行くし、お金と時間があればディズニーランドにも行く。確かに、私が今までこの白馬という地で感じてきたことに偽りはない。厳しい環境の中でも知恵を絞り、限られたものをみんなで共有する生活文化。そこに来ないけれど毎年鮭を送ってきてくれる常連さんとのつながりが生まれる白馬の人間性を美しく思う。
しかし一方で、お金さえあればブランドものを身につけてみたいし、テーマパークにも行きたいという欲求が私の中には存在している。こんな私を矛盾した存在だと思うだろう。そもそも白馬で良いと感じるものとは相反する都会の生活を楽しみたいという私の矛盾した欲求は、なにから生まれているのであろうか。おそらく私は東京で満たされない「何か」を白馬に求めているのであろう。そして、その満たされない「何か」は、白馬に確実に存在している。それが私たちが今まで感じてきたもの。自然と寄り添う生活からうまれる「不確実性」であり、「つながり」なのではないだろうか。
それは本来、白馬にあるはずのものであったが、高度経済成長の波は、本来の白馬の生活を過去のものとし、バーコードシティの最善を押し付けてしまった。そのため白馬の人の生き方が変わり、昔の生活を知る人は年々少なくなっている。しかしまだ白馬の生活は失われていない。今ならまだ本来の白馬を取り戻すことができる。
毎年厳しい自然環境のなかで、地域で助け合い、自然と寄り添いながら暮らしている。そんな彼らが受け継いできた知恵や習慣を、普段の立ち振る舞いや言動に表れてくるものからひとつひとつ紡ぎ出す。僕らがこのプロセスを重視し、時間をかけて行なうのはそこに白馬らしさがあると感じているからである。そしてそこに気づけるのも都会から来たよそ者である私たちなのではないだろうか。
そもそも「らしさ」なんてもの自体、もともとないのかもしれない。しかしそのプロセスにおいて気づけたものはホンモノであり、それが「白馬」なのではないだろうか。
2月24日私たちははばうえを訪れた。
宿とは、真民宿という意味を内包しているのだ。




