矛盾した欲求が求めるものは

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ほぼ週に一度は白馬に来ているけれども、私だって東京に帰ればマックにも行くし、お金と時間があればディズニーランドにも行く。確かに、私が今までこの白馬という地で感じてきたことに偽りはない。厳しい環境の中でも知恵を絞り、限られたものをみんなで共有する生活文化。そこに来ないけれど毎年鮭を送ってきてくれる常連さんとのつながりが生まれる白馬の人間性を美しく思う。

しかし一方で、お金さえあればブランドものを身につけてみたいし、テーマパークにも行きたいという欲求が私の中には存在している。こんな私を矛盾した存在だと思うだろう。そもそも白馬で良いと感じるものとは相反する都会の生活を楽しみたいという私の矛盾した欲求は、なにから生まれているのであろうか。おそらく私は東京で満たされない「何か」を白馬に求めているのであろう。そして、その満たされない「何か」は、白馬に確実に存在している。それが私たちが今まで感じてきたもの。自然と寄り添う生活からうまれる「不確実性」であり、「つながり」なのではないだろうか。

それは本来、白馬にあるはずのものであったが、高度経済成長の波は、本来の白馬の生活を過去のものとし、バーコードシティの最善を押し付けてしまった。そのため白馬の人の生き方が変わり、昔の生活を知る人は年々少なくなっている。しかしまだ白馬の生活は失われていない。今ならまだ本来の白馬を取り戻すことができる。

毎年厳しい自然環境のなかで、地域で助け合い、自然と寄り添いながら暮らしている。そんな彼らが受け継いできた知恵や習慣を、普段の立ち振る舞いや言動に表れてくるものからひとつひとつ紡ぎ出す。僕らがこのプロセスを重視し、時間をかけて行なうのはそこに白馬らしさがあると感じているからである。そしてそこに気づけるのも都会から来たよそ者である私たちなのではないだろうか。

そもそも「らしさ」なんてもの自体、もともとないのかもしれない。しかしそのプロセスにおいて気づけたものはホンモノであり、それが「白馬」なのではないだろうか。

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新民宿とは

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ばあちゃん2月24日私たちははばうえを訪れた。
前回の訪問から1カ月が経っていた。
益子訪問で感じた実生活に寄り添った素朴で用の為につくられた自然体な美し
さが、本来民宿が持っていた生活文化の美しさに近いことをはばうえのオーナー
と共有した。
これまで私たちは、よそ者だからこそ見える白馬村に寄り添う生活文化を発掘
・再編集してきたわけだが、「新民宿」とは何ぞや、という問いの答えを探すプ
ロジェクトも佳境だ。明確な答えが用意されていない中、プロジェクトの中で模
索した。丁寧でセンスのいいおもてなしをする宿は白馬にもある。なにを以て
「新民宿」とするのだろう。「新しい」と調べてみると
1 その状態になってからあまり時間が経過していない。初めてである。
2 以前のものと違っている。
3 現代的である。進歩的である。また、奇抜である。
とある。
では私たちは今までにないものを作り上げようとしているのだろうか。
仮説検証のなかで徐々に顕在化してきているこたえは、決してそうではない。
基本をとらえ、本来の民宿の姿に立ち戻ることで、
誇るべき白馬の生活文化を享受できるようになる、そう私たちは考える。
それには、スキー客を受け入れることでいかに多くの客を受け入れ、スキー場へ
送り出すかを重視するあまり、意図しないまましてきた意思決定の蓄積をそぎ落
とすことが必要だ。この蓄積をそぎ落とすためにオーナーの意識を改革する。
新民おばあちゃん宿とは、真民宿という意味を内包しているのだ。

2月18日私たちははばうえを訪れた。前回の訪問から1カ月が経っていた。

益子訪問で感じた実生活に寄り添った素朴で用の為につくられた自然体な美しさが、本来民宿が持っていた生活文化の美しさに近いことをはばうえのオーナーと共有した。

ばあちゃん

これまで私たちは、よそ者だからこそ見える白馬村に寄り添う生活文化を発掘・再編集してきたわけだが、「新民宿」とは何ぞや、という問いの答えを探すプロジェクトも佳境だ。明確な答えが用意されていない中、プロジェクトの中で模索した。丁寧でセンスのいいおもてなしをする宿は白馬にもある。なにを以て「新民宿」とするのだろう。「新しい」と調べてみると

1 その状態になってからあまり時間が経過していない。初めてである。

2 以前のものと違っている。

3 現代的である。進歩的である。また、奇抜である。

とある。では私たちは今までにないものを作り上げようとしているのだろうか。仮説検証のなかで徐々に顕在化してきているこたえは、決してそうではない。基本をとらえ、本来の民宿の姿に立ち戻ることで、誇るべき白馬の生活文化を享受できるようになる、そう私たちは考える。それには、スキー客を受け入れることでいかに多くの客を受け入れ、スキー場へ送り出すかを重視するあまり、意図しないまましてきた意思決定の蓄積をそぎ落とすことが必要だ。この蓄積をそぎ落とすためにオーナーの意識を改革する。新民宿とは、本来の姿に立ちかえるという視点において真民宿という意味を内包しているのだ。

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新民宿が器に求めるもの

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1月27日、私たちは白馬村観光局の庵さん、柏原さんと共に栃木県益子町に再訪した。訪問の目的は、新民宿の食事である「白馬御前」の器に見合ったものを、益子で得られるかを調査するため。

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白馬村新民宿は、「白馬村の生活文化を感じられる民宿」である。コラムを読まれている方の中には、「それでは何で益子で器を探してるんだ?白馬村の生活文化にこだわるならば、白馬村で作られた食器を使うべきだろう。」と疑問を持たれる方もいるかもしれない。それには三つの理由がある。

一つ目の理由は、白馬は陶器の産地としては盛んではなかったこと。雄大な自然を誇る白馬も、陶器の産地としては適した土地ではなかったのだと思う。二つ目の理由は、これが「とにかく益子に行ってみよう」という要因になったのだが、元々白馬の多くの民宿は食器を買い付けに益子を訪れていたそうだ。地元の調理会のおばちゃんたちに昔の民宿の話を聞いているとき、「よく食器を買いに益子まで行った」と話を何人もの方に伺った。生活雑器として知られる益子の器は、丈夫で安いということが良く知られていたそう。おそらく地元に良質な陶器がなかったから、益子に買いに行ったのだと思う。

二つの理由から「とりあえず益子に行ってみよう」ということになったが、決して益子の器であれば何でもいいわけではない。むしろ、歴史的・文化的に白馬とつながりがあったというだけで食器を決めてしまうのは良くないとも思っている。それ以上に新民宿が器に求めるもの。それは、「白馬の想いとつなげられる器」であるということだ。

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用の美と新民宿」の中で書いたが、白馬村新民宿には「白馬の生活文化を感じられる民宿」を求めている理由がある。それは、「おばあさん世代が元気なうちに白馬の土地性を次世代に継承する基盤をつくる必要がある」から。このまましばらくすると「白馬の土地性」は衰退していく一方だと感じている。

高度経済成長は大量のヒトとカネを白馬にもたらしたが、それらと引き換えに白馬の文化と伝統を合理性によって飲み込んでしまった。私たちの言葉でいえば、ミルフィーユビレッジはバーコードシティの最善を押しつけられてしまった。(「この景色が、野菜を育てました。」)カネが溢れていた時代には気づかなかったが、今になって気づくこと。それは、「ミルフィーユビレッジにおける最善は、決してバーコードシティの最善と同じものではない」ということ。ミルフィーユビレッジには、バーコードシティには存在しない魅力がたくさんあった。質素だけれど豊かな食事。厳しい自然との共存の中にも幸せを見いだせる生活観。お金がなくても生きていける豊かな気候・風土。この恵まれた環境は当たり前のように存在しており、白馬はその中で生活文化を形成していった。しかし、高度経済成長期を境にそうしたものよりも人工的で豪華なものが求められるようになった。そしてまた時代が変わり、今はまた多くの人が、ミルフィーユビレッジを本来の姿に戻したいと思っているが、しかし姿は、もはや風前の灯のように儚いものとなっている。白馬の生活文化を知る人は年々少なくなっている。例えその生活を聞きはしても、実際に生活の中に表現できる場はほとんど見当たらない。いつしかそれも物語として残るだけになり、生活の場から消えてしまうのではないか。それから思い出したように「白馬の生活文化を表現しよう」と言ったとしても、それは単なる模倣と復刻に終わる。似て非なるものであり、まったく同じ空気感は出せないだろう。そもそも本来の白馬の空気感を誰も知らないのだから。

人は気候と風土によって作られる。人が作る文化も同じである。また、文化が継承されるには、その地域の気候・風土を受けて育った人が、先人が積み重ねてきたコト・モノを見て、聞いて、感じないといけない。そのためにも、生活文化が失われていない今だからこそ、それが実際の生活の中で継承される場を作る必要がある。そしてその場所こそまさしく「本来の白馬」を表す場所となり、時代を超えても「白馬の土地性」が表れている場となる。それが白馬村新民宿の求める姿である。付けたして言えば、今の時代の多くの観光客が求めている場でもあるだろう。

そうした理由から食器を選ぶ場合、もちろん美しさを持ち合わせている上で、「本質的な想い」を抱いている器でなければならない。その想いとは「土地を想う心」であろう。益子焼で言うならば、「益子焼とは何か」という問いと真剣に向き合っている人の器であるということだ。

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世間では有名な産地として知られ、二人の国宝の名前がシンボルとなる益子焼。しかし、本来の益子焼とは何か。誰かが作り上げ、メディアが有名にした「益子焼」が始まりであり、ゴールであるわけはもちろんないのだ。その疑問に向き合い、先人の想いと向き合いながらそれを真摯に引き受け、次の世代に伝えていこうとする人がいるならば、白馬村新民宿はその人の器を求めたい。その人の器ならば、白馬と益子の「想い」をつなげる。その想いのつながりは今後のそれぞれの土地の意味を深く掘り下げていくことになり、ここに地域を超えた想いのつながりができる。このつながりこそ、ミルフィーユビレッジでしか作れないつながりであり、地域の本質的な魅力を伸ばしていくことだろう。

そんな視点を持って益子を訪ねた。美しい器を何点も見つけた。この器が想いをつなげるものかどうかはわからないが、とりあえず手に入れた器を調理会のおばちゃんたちや民宿オーナーとの話し合いの場に持ち寄ることにしている。これがどのような結果に落ち着くかわからないが、白馬の地で民宿や生活文化を想う心が、多くの地域とのつながりを作ることになったら、それはとても素晴らしく、美しい。そのつながりで結ばれているものが本質的に同じだということは、皆知っているのだ。

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用の美と新民宿

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今後の方向性

これまでのプロセスの確認と新民宿のイメージを共有するために白馬村観光局の方々と打ち合わせをした。事前の益子焼訪問などを踏まえ、新民宿の食事や設えについて方向性を決める。話の中でキーワードに挙がったのは、「感動と美」である。宿泊するお客さんが、新民宿で事前に予期しなかった感動を味わったり、たとえ瞬間的であったとしても新民宿で享受できる美を感じることができるようにしたいというのがみんなの願いだった。

そもそも、民宿に美を持たせるべきか否か、というところには議論が伴うが、もし仮に美を追求しようと考えた時、新民宿にふさわしい美の一つとして挙げられるのは、「用の美」である。これまでのプロセスで私達は、従来の民宿に飾られてきた過度な装飾や習慣を一端引き離した。現在は設え・食事ともに、引き算によって新民宿の基盤ができあがった状態だ。この基盤に、新民宿に最もふさわしい、自然体で美しく感じられるものをのせなければならない。その時、この「用の美」と呼ばれる考え方が重要になってくる。

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用の美

日常的に自然から産み出され、健康で素朴な美しさを持つものとして民藝がある。これらは古くから人々の生活の中に溶け込み、高い機能性を持ちながら広く日本国土に普及した。実用性だけを追求された結果、人々から注意を払われずに些細なものと見なされ軽んじられてきたわけでもある。しかし、この民藝にひとたび着目した時、それが持っている自然背景や民族の心、時代文化の反映が美しいものであることに気付く。外来手法でもなく模倣でもなく、地方に適した形で存在していて極めて郷土的であり、民間の人々から親しみを持って使われた情感が感じられる。これらは、量産ゆえに無名な名人によってほとんど無作為/無意識のうちに技を磨かれてきた。自然と熟練の技が一体化し、生命力に充ちているというところには、民宿の生活文化に近い美しさが存在する。生活の潤いを感じさせてくれるものである。日々の作り手側の“無心”のまま、用のために造られた質素で誇らない自然の美。それに対して使う人も用にかなう物に愛着を持って接する。そこに物と心のつながりがあり、強さという美が加わる。(参照:用の美、柳宋悦―日本の美)

私達がそういった美しさに触れたとき、その形、素地、色、模様、線、触致などを自ら感じられるようになれば、それは「味」を感じとるということであるかもしれない。感じる側も器の内に自然を見る洞察力を持ち、素直に自在にその美を感じられるようでなければならない。そのような美を享受したい時に画面を通さず直に見られ、触れられ、愛着を感じられる場所が新民宿となりうる。

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器が伝えること/器から受け取ること

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栃木県益子町訪問

今日は新民宿の料理に使用する食器について考えるため、益子焼の産地である栃木県益子町を訪れた。

益子焼は明治維新の直前である1853年に始まった。益子焼を一層有名にしたのは濱田庄司である。濱田は1930年ごろから益子町で作業を始め、現在日本で広く知られる「益子焼」のイメージを作った。

益子焼は、現在では280ほどの窯元がある。いくつかの窯元の作品を見せてもらったが、本当に様々であった。そうすると「益子焼とは何か?」という問いにどうしても行きつく。この問いに対しては、昭和54年8月に制定された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」が益子焼を定義している。その定義によると益子焼は、

①成形はろくろ成形、型起こし成型又は手ひねり成形によること②素地の模様付けをする場合には、化粧掛け、はけ目、彫り、飛びかんな又はイッチンによること③下絵付けをする場合には、線描き又はぼかしによること④釉掛けは、浸し掛け、流し掛け、はけ掛け又は筒掛けによること。この場合において、釉薬は「並白釉」「柿赤釉」「黒釉」「あめ釉」「糠白釉」「灰釉」又は「糠青磁釉」とすること⑤釉上絵付けをする場合には、線描き又はぼかしによること。この場合において、絵具は「呉須絵具」「鉄砂絵具」又は「銅絵具」とすること

となっている。

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しかし、この定義は厳密に「益子焼」を表しているだろうか。300に近い数の「益子焼」が存在する中では、「それでは何を持って益子焼とするのか?」という問いが生まれるだろう。土が益子のものであることか?表面に同じ釉薬が塗られていることか?作家が益子出身の人であることか?どれも問いに答えるものであるが、私はこの益子で「もっと根柢の部分で考えられるべき益子焼観」があるのではないかと感じた。それは「益子焼が使われる場の質の向上」である。益子焼は生活雑器としてその機能を果たしてきた。一時の焼き物の売れ方はすさまじいものがあったそうだが、それも過去のことである。現在は機械生産による大量生産・低価格の商品が出回っている。その商品も表面的には器としての機能とデザインを備えている。ではその商品に対して、手作りの器を作る窯元は何が提供できるか。それは何より「生活雑器としての伝統を積み重ねた益子焼の存在による、食事時空間の質の向上」であるべきではないか。その答えには「伝統とは何を指すか?」等の問いは生まれるが、それには益子の食事の時間・空間、食生活、そして器の使われ方の再検討から入ればよい。

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この問いは「白馬村の民宿とは何か?」という問いと本質的に同じである。白馬村という土地で始まった民宿は全て「白馬村民宿」であるという。すると「白馬村の民宿は、他地域の民宿とはどう違うのか?」という問いが生まれるであろう。さらに白馬は民宿発祥の地である。それらに向き合い、「白馬の民宿とはこのような民宿だ」と改めて答えを出しているものが、新民宿だと言える。

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ある存在の、気のままに。

陶芸家の鈴木稔さんを紹介していただいた。鈴木さんはろくろではなく「型」を使って陶器を作られる作家で、現在益子に20軒ほどしかない「登り窯」を使って陶器を焼く作家である。登り窯で焚く理由は、「偶発性の中でしか生まれない美しさがある」からだそうだ。登り窯は現在ほとんどの窯元が使用しているガス窯に比べて火力調節が難しい。一定の火力を保てるガス窯に比べて、登り窯では火力が不安定になりやすい。熱が十分に届かずに生焼けになってしまう陶器もあるそうだ。しかし「登り窯で焼くこと」は偶発性を生む。この偶発性は、時に作品に思わぬ美しさを残す。まるで作品の制作に人智を超えた存在が関わっているかのように。その存在の働きかけは、作り手の想定を超えたところにある作品の魅力を引き出す。その存在の働きかけは、作り手であるはずの作家が作品と改めて「出会う」という状況を作り出す。それほどに登り窯のような偶発性を持つ要因で生まれる作品は面白い。

他方、鈴木さんは「今の都会人は用の美の享受能力が低くなっている」と指摘する。都会の大量生産商品を使っている人には、器が伝えるメッセージの享受能力が低くなっている。都会にあふれるフランチャイズ展開の食事を食べている人には、器を「食事をのせるもの」以上に理解しない。器が何かメッセージを持っているとは考えないし、器の用(機能)から何を受け取ればいいのか分からない。しかし、それでは器は本来の役割を十分に果たしていない。器の用はただ「食事をのせるもの」に留まるのではなく、それ自体もまた魅力を伝える。器はその魅力を、手で持たれたり口に当てられたりすることで、人間の味覚はもちろん視覚・嗅覚・触覚を通じて使い手に伝える。偶発性を帯びた器は使い手に驚きを与えるかもしれない。しかし、それこそが大量生産商品にはない生活雑貨としての器の楽しみ方なのではないか。用の美が宿された器は、そこから会話が発生する。使い手が「この感じ、良いよね。」というような非言語の内で感じる感覚を伝えることで、器はその役割を果たしている。そしてその感覚を受けた人同士は、その理解を通じて意味合いを共有し、楽しむことができる。

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新民宿の食事では、白馬のこだわりの食と器がもたらす調和を味わっていただきたい。多くの「つながり」の窓口としての役割を持つ新民宿。器の存在、食事の在り方もまた、お客に生活文化を伝える一連のつながりの中にある。そのつながりに触れてもらうことこそが、「白馬に寄り添った民宿」を伝えることになるのだろう。

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手足を動かし、よく働く村の女性達

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手の温もり

民宿のおかあさん・おばあちゃんは、「いつ休んでいるの?」と思うぐらい、よく手足を動かしては働いている。凍える寒さの夜に、かじかんだ手でザッザッと小気味よい音を立てながらお米を洗ったり、朝早く熱々のお餅を搗いては素手で手際よく丸め、みんなの分を分けてくれたりする。寒いときでもいつも、手のぬくもりで台所には湯気が立っている。

おばあちゃんが縁側に座って、乾燥させた豆一粒一粒の出来栄えを判断したり、障子を張ったり、お母さんがお姉ちゃんの着物を手で縫っていたり、おやつさえ毎回手作りで作ってしまうところからは、生活の営み一つ一つを丁寧に過ごし、気持ちを隅々まで行き届かせようとする努力が伺える。

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“手”を通してつながる

民宿にあるほとんどのモノや行いは、そんな風に手をかけられているという意味で、お母さんやおばあちゃんの“手”を通してつながっているように思う。

大量生産で既製品が出回る中でも、自分達で作れるものはこだわりぬいて作り、一見、すぐに目的が達成できてしまうような物事に対しても、ひたむきに向き合い追及していく。寒さや不便にそれを遮らせない。昔から伝わる、生きるための知恵を失わずに自然と共生しているうちに、身の周りのモノの成り立ちを理解し、自然と大切なことを享受できるようになっているようだ。

自然の厳しさに囲まれながらも、それに臆さず、また傲慢にもならずに一つのものを追求していく営み。そのただずまいに、尊ささえ感じてしまう。

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24時間こたつがつけっぱなしなのに、エコ?

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24時間こたつがつけっぱなしなのに、エコ?

はばうえの談話室にあるこたつは、24時間温かい。そして最長でも6日間つけっぱなし。日中にはお客さんが訪れ、たくさんの人がこたつを囲んでおしゃべりする。お昼休みにうたた寝するのも気持ちいい。学校帰りの子供達を迎えるのも、清々しい朝の肌寒さを緩和してくれるのもこたつだ。

はばうえで大活躍のこたつだけど、よくあるような電気の中央熱源じゃない。温かくなるまでに時間はかからないし、何となく独特の匂いがする。おばあちゃんやお母さんが時々、棒を使って中でゴソゴソすると、とたんに温かさが増す。

実はこたつを暖かくしている熱源は、豆炭。豆炭は保温性が高く、過度に熱くなったり寒くなったりせずに適度な放熱を齎してくれる。おかげで人体に反した急激な温度変化がなく、体に負担がかからない。経済性にも優れていて、安い上に1個あれば数日は持続する。工夫次第で地球に優しく生活できるのだ。

掘ってあるから迂闊に移動できないが、こたつを囲んで自然と家族が一箇所に集まり、定位置が決まってくることは団欒を守る意味で魅力なのではないか。それに昔、スキーブームでお客さんが白馬村へ大量になだれ込んだ際には、他の民宿に泊まった女性客が雪国の寒さに耐えられずにはばうえのこたつに当たりに来たというエピソードもある。

昔も今も、変わらずそこにある。民宿に安定感をもたらし ホッとさせてくれるものとして、こたつも一役買っている。

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遠回りする理由

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Filed under 新民宿づくり

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あえて手間隙をかける

新民宿の生活は、目的のためにわざわざ遠回りする。食べ物は何ヶ月にも渡って自分達の手で育てる。保存食のために味を染み込ませた漬物は、食べ頃が来るまで待ち続ける。お客さんに出す食事は何度も推敲しながら表現方法を考え、試作を繰り返す。設えでさえ大工さんに頼めば完璧なアウトプットを速く出せるのに、わざわざ自分達で行う。このプロジェクトも、学生が都会から片道4時間半かけて白馬村に通い、オーナーさんがその都度送り迎えをして下さって成り立っている。

ここでは、遠回りすることの意味を感じないわけにいかない。遠回りするということは、手間隙をかけるということ。手間隙をかけるということは、あえて時間を費やし、一つ一つの段階を自分達の目で見届けることであり、その過程の気持ちの変化や環境の変化に敏感に反応していくことだ。たとえ途中で失敗したり汚れたりしても、最後まで作り上げる覚悟がなければいけない。

コンサル会社ではなく学生の立場である私達がこのプロジェトを行う理由の一つに、手間隙をかける中で表れるそういった変化や合意形成にじっくり向き合いたいという考えがある。何でも外部に委託してしまうことは、言葉にできない思いを無視して流してしまうのと同じことだ。

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遠回りから導かれるもの

手間隙をかけることの意味は、やはり主体の人が参加し、実体感を伴って体験するところにある。大変な作業をする時に、自ずと目の前に置かれているモノの素材や性質を読み取ることが必要となるし、創意工夫を試す機会を経るうちに、何かを感じるようになる。受身な姿勢ではない、そんな心情的変化を引き起こしたい。

食堂の壁の、刷毛の方向一つの意味も知っている。些細な部分に愛着を感じるようになる。今回、民宿改造に携わった誰もが、自分自身の力で民宿を変えられることを知った。自分が手をかけていることからくる自信と、民宿にあるものすべてへの信頼が生まれ始めている。遠回りすることによって得られるすがすがしさがある。やった人にしかわからない快感は特権だ。それが今後のオペレーションやメンテナンスにつながると思っている。

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ちょっとしたデザイン

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Filed under しつらえ

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壁の裏に埋もれたデザイン

今日の作業は、設えの土台作り。大工さんと再生前の民宿のデザインを見直す。既存のデザインといっても表層的なものではなく、建物の板を剥いだ内側の仕組みや床下空間、天井奥までしっかり確認する。

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壁紙を剥がしてみたら、いつの間にかあいた雨漏りの穴が見つかり、常連さんが気を利かしてめぐらした配線の跡 や額を飾った釘穴などが残った。

そんな中で、一際みんなの注目を集めたのが下の写真の、黒い柱だ。

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最小限のデザイン

これは元々、漫画部屋の壁の裏に隠されていた。スキーブームに伴い今までの増改築やオペレーションが効率性や経済性を優先してきたあまり、この柱もわざわざ見えなくていいものとされてきた。でも、社会的な状況として地方と都市の差が激しくなってきた今、この柱が持っている意味はとても重要なものとなってくる。

なぜなら、この柱にはこの民宿にしか持ち得ない本質的な独自性がある。それは、都会のブランドやビルのデザインにはない、決定的な他との“差異”だ。そもそも、都会では常に「私」を「私」として認識するための他者との差異が求められている。その証拠として、消費においてブランドはとても重要であるし、テーマパークなどの人気スポットには人が集まる。ブランドは買って身につけるだけで自己表現できる最も簡単な手段であり、テーマパークは行くことで非日常を味あわせてくれる。つまり、社会に対して“自分の存在を明確に浮き上がらせてくれるもの”が都会では求められ、消費されている。それはアイデンティティにも似たものだ。個人が消費を通して人との差異を求め、「自分らしさ」を確立させているのが都会なのではないだろうか。

でも、よく考えてみると都会で個人が手に入れられる人との差異は、実は非常に単一的なものだ。有名デザイナーによるブランドバックのデザイン、洋服の流行色、携帯電話の人気機種…。モノの本質というより表層の形が変わっているだけで、“人と違うモノや考え方”を求めるという価値観は共通している。それは経済合理的な行動より文化的な行動を重視されている現代においてもなお、社会を動かしている構成原理だ。有名ブランドに共感しているけれども自分との直接的なつながりはなかったり、紙面のモデルに憧れて流行色を盲目的に受け入れていたり、おしゃれで知的なCMのイメージを携帯電話に投影させていたり…。そこに帰属意識はない。つまりこれらは、人に根ざしていない独自性だ。自分がお金を使って買うものを選択することで人との差異を感じ、満足している。けれど、残念ながら実際にはその差異を求めれば求めるほど、ただ根拠のない“人と違うモノや考え方”を求める価値観という単純で同一なものになっていく。多種多様な表層を辿っていくと、一つしかない本質に行き着く。都会での本質は、つまり虚だ。寄せ集めでできている都会の生活には、人に根ざした商品やサービスは重視されていない。

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一方で今回の柱を見てほしい。田舎には東京では感じ得ない差異がある。この民宿にもアイデンティティや本質的な差異が土地や場所・人にあふれている。この場所で暮らす人にとって、自分達の存在や歴史を大切に思えるもの、そしてこれからの潜在的な価値に気付けるもの、それがこの柱ではないか。今まで隠され、今も埋もれそうになっている。この民宿だけではなく、白馬村全体でそういう事態になっている。人の本質を築く上で有益であり、土地や人にとって必要なものを受容できるという価値。個人と他者の本当の差異を見出せるようになるものが、この柱なのではないだろうか。

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新しい部分と古い部分を整理して、そんな白馬村の本質的な価値を都会人でも受容できることには大きな意味がある。関係主体や場の中に入り込んで丁寧に価値を発掘/再編集するデザインの力。この柱を民宿の中でいかに表現していくかというところに新民宿としての真価が問われている。新民宿宣言がそのモデルになるのではないだろうか。

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after

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設えの作りこみ

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Filed under しつらえ

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今後のプロセス

今回の白馬村訪問は12月2日からスタートする。12:30にメンバーの林・連・くま・小島が新宿からのバスで白馬村に到着し、はばうえのオーナーさんと合流した。今回のメインは【設え】の具体的な作りこみである。同時並行で【食事編】も提案できる状態まで考え出していく。あらかじめオーナーさんと連が棟梁から預かっている資料を共有し、今後の進め方を話し合った。今日の午後には設え工事の下準備としてエリアAの壁紙はがしと釘抜きをする。同時並行で【食事編】の新たな提案料理としてくまちゃんが考えてきたロール白菜を煮込む。3日に大工さんとの具体的な工事の打ち合わせと土台工事開始、4日は以上の作業と並行しながらさらに、民宿のオペレーションとして取り入れるコンテンツ作りの資料探しも始める予定だ。5~6日に木枠の艶出しをしていく。

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表層に埋もれた蓄積

さっそく、エリアAの壁紙はがしと釘抜きに入る。既に端々がはがれ始めていた壁紙はすぐに剥がれ、今まで食堂を包み込んでいた雰囲気も一緒に、一端この場所から引き離された。談話室やエリアAにある釘は昔、家族の誰かが硬い木枠に力いっぱい打ち込んだもので、亡くなったおじいちゃんの賞状や仏画をしっかりと支えてきた。家族やお客さんが日常目にするものなど、ここにしかない生活文化の雰囲気を支えていただけあって、奥までしっかり刺さっている。釘抜きで力いっぱい引っ張っても、なかなか抜けない。壁に固執しているようにも見える。これは、習慣の固執と相通じるところがある。私達が今行っているのは、身体性を伴って変化を齎す取り組み。体験を通して私達とオーナーさんが互いに伝統や生活文化を再帰的に認識していった結果、今の習慣の良し悪しがわかってきた。そして、具体的に良い方向に向かって習慣を見直そうとしている。その姿勢が釘一本を抜くという一つの作業にも垣間見え、私達がやってきたことの意味が説明できるようになってきた。

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