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何もないけど、すべてがある自然
みんなと自然の中を歩くと、ついつい、昔のことを思い出してしまう。“小学生の頃は考える暇もなく 楽しかったな~。”ただ漠然と、そういう印象がフラッシュバックする。幼い頃、何かに向き合って夢中になっていた瞬間が、本当の自分の気持ちで、実は本能的に求めているんだろうか。”自然の中”というシチュエーションやタイミングでそんなことを思い出すなんて不思議だけど、同じような経験をしたことのある人って多いんじゃないか。

当時は意識していなかったけど、小学校なら大抵、校庭に木が植わっていて、周りを取り囲んでいたのは豊かな自然だったりする。私の場合、小学生の頃は男の子同然だったので、外で裸足で転げ回って、どろんこになって友達と遊ぶことに熱中していたのだけど・・・お金も手間もかけず、その時その場の自分達の思いつきで遊んでいた。

私達の親の世代は、今よりもっと開発されていない、自然の多い時代に育っているはずだから、川で泳いだり、木に登って怪我をしたりした思い出もあるのだろう。きっとこの、自然に対するノスタルジックな考えは、年齢を重ねれば重ねるほど強くなっていくんだろうな。そして、私達の遠い遠い先祖になると、自然の中で生きていくこと自体が課題で、それに向かって試行錯誤を繰り返していたはずだ。つまり、私達の存在の根本には必ず自然がある。私達が夢中になれる“何か”も自然の中にいて初めて発生するんじゃないか。

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すべてがあるけど、何もない都市
成長に伴い、ほとんどの人が進路や就職によって社会の仕組みに適応することが必要となったとき、「自分達は社会的な人間にならなければ!」と思って、向上心の欲を出せば出すほど、基準は経済の発達した東京になる。都会は最先端が集約されたところで、洗練されていて、知的財産も溢れているからだ。居、食、住、人、もの、お金、娯楽、メディア、スポーツ、芸術、恋愛・・・何でもある。世界とも繋がっている。楽しみたいときもストレス解消したいときも、そういった溢れているモノを利用できる。

でも、考えてみるとそういったモノは都会ではすべて完成されているように思う。土台がしっかり誰かに作られているものだらけだ。流通している商品やサービスもそうだし、理論も流行も、自分が進む選択肢もすべて判断基準を知らされた上で選んでいる。自分が夢中になりたい“何か”はすべて人が作った基盤の上で見つけるしかない。

つまり、都会に溢れるモノを辿っていっても、その根本は都会にはないということだ。都会では出来上がっている何かを途中から引き継いで考えることができても、0から発想することはできない。特に五感を伴って実体感のある0の状態から考えることは難しくて、恐らく先に頭が動いてしまう。タイミングも場所も用意されていて、自分の思いついた発想は本物じゃないとすると、将来、自分の原点はどんなところに起因するのだろう。それから、夢中になりたい“何か”も、テレビやネットが特集した番組の中でしか見つけられないのだろうか。

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